大丸有INDEX

江戸時代の歴史

はじめに

江戸城に隣接し、大名小路と呼ばれた丸の内は、江戸時代を通じて諸国大名の藩邸上屋敷が設けられた土地です。そこに住まう諸侯の顔ぶれは終始固定されたものではなく、時勢や幕府の政治的背景によって絶えず入れ替わってきました。
徳川家康による江戸城下の壮大な都市計画にはじまり、大手町・丸の内・有楽町の諸大名の推移から見る、277年におよぶ幕府興亡と大名小路変遷の物語をご覧下さい。

本稿はかつて日比谷パークビルに事務所を構え、丸の内の出版社として当地区に関する数々の貴重な書物を世に残してきた、株式会社菱芸出版が1995年に発行した「大名小路から丸の内へ 江戸絵図が語る丸の内三〇〇年」(非売品)から転載・抜粋したもので、要約にあたり意を損なわず若干の編集と図版を加えました。

江戸藩邸の上屋敷に住まう大名諸侯の変遷を、こうして江戸時代全体を通じて俯瞰できるのは、数多ある古地図を丹念に参照・整理した同書が残されているからであり、ここに掲載するにあたり、編著者である玉野惣次郎と編集諸氏の偉業に心からの感謝と敬意を表します。

江戸図屛風(部分)

江戸図屛風(部分)

明暦3年(1657)の大火で初期の江戸は全滅したが、それ以前の様子をつたえるのがこの屏風絵である。右図はこの大火で完成後33年で焼滅し、再建されなかった天守閣と本丸。
左図は和田倉橋から大手濠へかけての一帯で、馬場先の地名となった馬場が描かれ、和田倉橋の右下の水路は道三堀で、その左ー帯は姫路藩本多忠刻邸。対岸の一角は、今治藩主松平忠房邸。その上は越前藩松平忠昌邸で、いずれも豪壮華麗な建築であることがわかる。(国立歴史民俗博物館・所蔵)

文明開化の明治時代以降、赤煉瓦の建物にはじまる西洋式オフィス街として発展してきた大手町・丸の内・有楽町地区。
高層ビルから目を転じると、そこには緑豊かな皇居=旧江戸城があります。
1600年頃から約300年におよぶ江戸の歴史、その名残が今も当地区の日常に残っています。
大丸有江戸情緒創出推進協議会永続する都市の価値となる歴史遺産、未だに人々を惹きつけて止まない都市の魅力として、当地区ならではの情緒あふれる江戸文化に、現代からのひかりを当てていきます。

丸の内仲通り西側

丸の内仲通り西側 (皇居側)

丸の内仲通り東側

丸の内仲通り東側 (東京駅側)

江戸城下の形成

  • 八月朔日(ついたち)
  • かのえむま(庚午)
  • はれる
  • 八ツ半時(午後3時頃)
  • 貝塚御着(平河町辺)
  • 御膳召しあがらる
  • 七ツ時過(午後5時半頃)
  • 御入城
  • めでたさ申すばかりなし
  • 「天正日記」より

「丸の内」の第一歩は、天正18年(1590年)8月1日、小田原北条氏を討滅した豊臣秀吉の政策により、徳川家康が東海から関東六州=のち八州=の太守として江戸に入ったとき、江戸城御曲輪内、すなわち丸の内としてしるされた。以来江戸幕府崩壊の慶応3年までの277年間、丸の内は“天下の総城下・江戸”の中枢として機能してきた点は、今日の丸の内と同様である。
江戸時代の当地一帯は、御曲輪内、つまり江戸城内であっただけに、老中や大老、若年寄、寺社奉行、奏者番など、幕閣の役宅をはじめ、譜代と外様の有力大名の上屋敷が、江戸初期では120近く、中期以後は整備されて50~60が広大な敷地に白塀を連ね、「大名屋敷」と呼ばれていた。

その地域は、東は外堀通りから有楽町一丁目の南端をめぐり、日比谷通りまで、南と西は皇居外苑全域と、慶長年間中期には大手門内も含んでいた。つまり、現在の大手町一・二丁目、丸の内一・二・三丁目、有楽町一丁目に該当し、我々が概念とする“丸の内”に同じである。
屋敷街の性格は、皇居外苑が老中・若年寄などの幕府重臣の役宅街、現ビル街は、譜代・外様の別なく親徳川大名と数人の旗本、医師、儒官、それに評定所、伝奏屋敷、南北の町奉行所、定火消屋敷などで占められていた。江戸時代、そこに在住した大名は、ゆうに一千人を越えたであろう。

温暖の東海から荒れた関東へ

それまでの駿河・遠江・三河(東海地方)と、甲斐(山梨)一円、信濃(長野)の一部の領主から、北条氏の旧領である関東六州―伊豆・相模・武蔵・上総・上野(のちに下野・安房を加えて八州となる)の太守になったといえば聞こえはいいが、実態は秀吉一流の大盤振舞いに擬装された、伊達政宗ら東北の強豪に対する牽制としながら家康を大阪から遠ざけ、さらには徳川氏という二百万石の大々名を、指一本で動かしてみせる示威にあった。
江戸は太田道灌以来の城下とはいえ、家康入城当時の江戸城は、現在の日比谷通あたりまで渚が迫り、漁民の苫屋が百戸ほどしかない侘しさで、道灌時代の「関東に甲たる」面影はなかった。

中古江戸荘園

室町時代後期 (赤い部分が丸の内付近)

長禄年間

長禄年間

慶長年間

慶長年間

埋立後の江戸城と外濠(赤い部分が丸の内付近)

埋立後の江戸城と外濠 (赤い部分が丸の内付近)

このように当時は、いまの丸の内・大手町・有楽町の一帯は、道灌以来ほとんど変わらず、砂浜と松の木と、沼と漁民の家があるだけの所。
こうした風光を眺めて、家康は「一面の原野ではあるが、放鷹の楽しみにこと欠かぬ」と言ったとされているが、まず家康が着手したのは町の整備であった。家康の構想は、この海辺の寒村に、堅固な城郭を中心とした、軍港都市でもある広大な城下町を建設することであった。
中世の城のほとんどは山城で、城下町は山麓につくられていた。山地のない江戸では、城の周囲を家臣団で固め、外周には町屋を配し、江戸湾を含め、都市全体を城の防衛施設として考えたのである。

最初に家康は、のちに“道三堀”と呼ばれる掘割工事に着手した。それと江戸城を直結した運河が果たした役割は大きかった。
徳川氏に限らず、多くの家臣団を抱えた大名の城下は消費者集団の居住地となり、生活物資の供給が急務となる。次第に諸国から集まってきた商人たちは道三堀の両側に店舗を構えて材木町、舟町、“四”の日に“市”が立つ四日市町などを生み、やがては柳町と呼ぶ遊女屋街まで出現した。
常盤河岸には江戸最古の銭湯ができた。家康入城の直後か、慶長のはじめごろ、伊勢国(三重県)生まれの与市という男が、銭甕橋のあたり(現在の常盤橋付近)で銭湯をはじめた。

慶長の大造成事業

江戸の地も、それまでの徳川氏の城下町から全日本的な意味をもつようになり、関ケ原合戦から3年後の慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いたことによってさらに強まり、江戸は日本の政治的中心地になっていく。
そこで家康は、それにふさわしい城下町づくりに本腰を入れはじめた。慶長8年(1603年)、全国の有力大名を中心に、江戸城下の一大造成工事の課役を発令した。
計画は、城の北側に続く駿河台、お茶の水の丘陵、当時の神田山を崩した土で、城の東、日比谷入江をはさんだ外島洲崎の一帯を埋め、市街地の大拡張をしようという壮大なものであった。 各家は“千石夫”といって、所領の石高一千石につき一人の割合で人夫を供出させられたが、どの大名家も徳川将軍家の意を迎える好機とあって、2万数千人の予定が、割当てを上回る3~4万人にのぼったという。

大手前は普通、その藩御用の豪商が、いざ合戦という時には召上げられて砦の役割を果たすよう軒を連ねているものだが、家康はここを内廓(城内)とし、主に譜代の重臣を置いて、城の正面である大手門を固めることにした。そのため大手前の商人を、後の天保年間(1644~47年)に常盤橋と改称された大橋(浅草口ともいう)の東の地区に移して「本町」とした。のちの日本橋本町であり、やがて江戸経済の中心地に発展する。

天下普請の江戸築城

翌慶長9年(1604年)6月、家康はいよいよ江戸城の本格的な普請計画を発表し、8月には全国諸大名に、まず石材運搬用の“石船”の調達を命じた。「天下普請」令の発動である。

城域の一番外周にあたる「外堀」は、城が攻められたとき最前線の防御線だから、その内側は御曲輪内または総曲輪といい、つまり城内であり、江戸城の特徴は、家康の構想どおり城下町をほとんど取り込んだところにある。
江戸城のもう一つの特徴は、基本が渦巻型になっている点である。(前掲「埋立後の江戸城と外濠」図参照)
内周濠と外周濠が一定距離で放射状の主要道によって結ばれていることがわかる。そして中心円と一周目の間は譜代―外様―旗本と、外様を挟む形の武家地に、一周と二周の間は町人町とした。大名小路―麹町(旗本)-神田(町人)の連続である。
このパターンによって城域は無限に拡大が可能であり、江戸が短期間に百万都市になった理由の一つである。

慶長11年、二代秀忠による江戸城の大増築が発令された。
城の象徴である天守閣の規模もまた日本最大であった。土台の石垣下から、屋根上に輝く3m余の金色のシャチまで、高さは大阪城の58.5mを超えて66mもあり、重量感にあふれていた。

大名藩邸の変遷

大名小路のなりたち

徳川家康が将軍になったことで、当地一帯もそれまでの譜代大名の屋敷に伍して、外様大名の屋敷が目立つようになった。家康への忠誠を表すための証人、言い換えれば人質を住まわせるのと、大名自身が家康の機嫌奉伺のため江戸入りする機会が増え、宿所にするためである。
全国諸侯のほとんどが江戸屋敷を持つようになった。こうなると当然のことに邸地が不足する。そこで徳川氏は、まだ入江のままであった現在の丸の内や有楽町周辺を、埋め立てを条件に与えていった。
とはいうものの、大名には所有権はもとより、土地に関する権利は一切ない。そのため廃家や絶家になれば収公(取上げ)されてしまうし、石高や格式、役職が変わっただけでも、それに応じた敷地面積や場所へ移動させられる。大名側の都合で「屋敷替え」を願い出ることもあったが、ほとんどの屋敷替えは幕府の方針によるものであった。大名が、のちに荻生徂徠が例えた「鉢植えの木」といわれるゆえんである。永住の保証はなに一つない悪条件下にありながらも、大名たちは競って豪壮な邸宅を建てて威勢を誇示した。

大名の屋敷群は譜代と外様に分かれ、おおむね今の祝田橋から皇居前広場にかけてが譜代の重臣、濠の外、今のビル街一帯が譜代と有力外様が混在する屋敷街であった。
各家が格式や禄高相応の屋敷におさまったのは、約25年後の寛永年間になってからであった。江戸城もほぼ完成し、西丸下(二重橋前)から大手町方面へかけての内濠内はだいたい譜代の重臣が住み、老中や若年寄、奏者番などの役職をもつ大名の屋敷は、官邸の性格を兼ねた役宅となった。
徳川氏としても、織田・豊臣時代の、いわば同僚の諸侯を臣従させようというのだから、個々の対応には細かい神経を使いながら徐々に権力を強めていった。

大名の登城風景

大名の登城風景

寛永12年の武家諸法度の強化改訂によって、それまでは大名たちの任意であった江戸奉伺と、証人を住まわせることが制度となった。参勤交代と妻子在府の制度化によって、大名小路の屋敷は住居としてだけでなはなく、江戸藩庁の性格を帯びるようになり、やがてここを“上屋敷”あるいは“居屋敷”と呼び、控え屋敷として中屋敷、下屋敷、それと海沿いに物資の陸揚げと保管用の蔵屋敷などを用意するようになった。
上屋敷には出府時の大名本人と、生涯領国には帰れなかった大名の正室(正夫人)や嫡男、それに藩役人、大名に付いて出府してきた重臣の一部などが住んだ。
中屋敷は下屋敷がある場合の呼び方で、ないときは上・下だけであり、隠居した先代藩主や嫡男以外の男子などが起居した。
下屋敷は別邸的性格をもち、大名の側室などはここに住んだが、保有の目的は、火災など有事の際の控屋敷であった。

藩庁としての役割は、大名当主が在府している時は藩政の中枢が移動してくるわけだから、次第に規模が大きくなり、特に他藩との交際や情報交換、さらには大名家にとって最大の負担となる軍役、いわゆる“お手伝普請”のいちはやい情報キャッチなどが重要な仕事になった。藩主が帰国中の江戸上屋敷は重臣の江戸家老が統括し、その下に江戸留守居役を頭とする事務機関が置かれた。
世の中が安定し、藩同士の外交や大名自身の幕府高官や将軍家に対する交際が、年代が下るにつれて派手になってくると江戸屋敷の経費は増大し、実に藩の総支出の60%を占めるほどの例も出てきて、大名経済は極端に収支が悪化する。
大名家にとって最大の脅威は、廃家・絶家、それに転封処分であった。そうなれば大名側も、なんらかの自衛手段を講じて当然であったろう。その方法として、幕府側の意向をいちはやく正確に知ることであり、各家とも幕府や諸大名家の内情に通じた者を江戸に配置し、有力旗本と親しくしたのである。

参勤交代の時期は、はじめは毎年4月と定められていたが、やがて1年在府・1年在国の原則が確立した。供数の規模は年々大規模で華美になった。少ない大名でも百名を下らず、多いのは数千名、そうした華美さを支える大名家の財政は恒常的に火の車であった。
230年あまり諸大名を苦しめてきた制度ではあったが、大名たちの領国と江戸の往復が、五街道の宿場経済や、江戸市中での一大消費によってもたらした効果は計り知れないものがあったことは皮肉である。参勤交代制度は幕末間近になって緩みだし、文久2年(1862年)には、大々名は3年に1年、その他も3年に1回、百日在府に改められたが、これは幕府権力の衰退を示すものであった。

●自選で名乗れた“何々守”
もともと〔守〕とは、国司の〔長官〕を「かみ」と読んだのを表記したもので、大化改新(645年)および大宝・養老の令制によって中央から地方の国々へ赴任して庶政全般を扱う、いわば地方官であった。
それが中世になって、室町幕府が国ごとに置いた守護職に侵犯されて実態を失い、戦国期の争乱によってまったく消滅し、ただ単に制度として名目的に存在するだけとなった。
徳川幕府は元和元年(1615年)、「武家諸法度」とともに発令した「禁中並公家諸法度」で、武家の官位は公家のそれとは別物であると規定した。これにより実質の伴わない、いわば〔空名〕となり、本来は「何々守」という地方長官の官名も、〔守名乗り〕することになっている三千石以上の武家なら自選で名乗りを決めて幕府に申請、許可をもらえば〔改名〕できたのである。
そのため出雲国に出羽守がいたり、相模守なのに因幡国の藩主だったり、また同名の何々守が数名いたりした。多少の不便はあったかもしれないが、公的には〔空名〕だから何ら支障にはならなかった。

●権威の象徴「松平」姓
松平姓が家康以前の徳川氏の姓だったことは知られているし、「松平十四流の一家」などと注記され別格扱いされている。さらに松平家は、十四家から分家したものや、結城秀康、紀伊・尾張・水戸など、家康の男児系をあわせて二十七家となり、総領家である徳川将軍家をしっかりガードしていた。
このほか〔松平姓〕は、有力譜代大名と、外様の大々名にも与えられている。賜姓の松平氏だけでも二十数家あり、これらは公式には〔松平〕を名乗って本苗をとなえなかったが、王政維新とともに松平を廃して本苗に復し、松平一門の中にさえ他の苗字に変更した家があった。

この図の成立年は不明である。図中の添え書きに、『慶長十一丙午年江戸御城立 此図者江戸御城建大名並御旗本江、屋敷地被下候節之図面焉」とあるところをみると、慶長十一年(一六〇六)以降、築城に参加した大名と旗本へ、賜邸のときに渡したものらしいが、後年の寛永元年(一六二四)に藩主となった、松平越後守(光長)の名があることからすると、寛永初期に重版したものと思われる。

慶長十年代は、十年四月の二代将軍秀忠の宜下で始まり、二十年(一六一五)、大坂夏の陣を終えたのちの七月十三日、元和にかわる。

大御所となった家康は、駿府城にあって江戸幕府をコントロールし、諸侯はつねに江戸と駿府の動向に、細心の注意をはらっていなければならなかった。またこの年代は、諸候が忠誠の証人をわれ先に江戸へ送り込みはじめ、いわゆる「大名小路」、正式には「江戸城御曲輪内」、すなわち「丸之内」一帯にかなりの速度で大名屋敷街が出現し、ざっと眺めても、戦国大名のスター級が名をつらねる結果となった。

そのおもな者をあげてみると、まず豊臣系大名では、関ヶ原の役で東軍の先鋒をつとめた福島正則、おなじく先鋒の藤堂高虎がいる。秀吉の一族浅野幸長、北近江の名族京極高次。関ケ原の決戦にのぞみ、家康と密約して豊臣大名の操縦につとめた黒田長政。大物二代目では長久手合戦で壮烈な討死をとげた池田恒興(信輝)の子輝政、蒲生氏郷の子秀行。高名なガラシャ夫人を母にもつ細川忠利。蜂須賀家政も有名な小六正勝の子だし、山内忠義は初代一豊の甥であり、父の利家亡きあと、家康に挙兵の疑いをかけられた前田家三代当主利常。森忠政は、本能寺の変で織田信長に殉じた森蘭丸・坊丸・兄弟の末弟である。また将軍家兵法師範の柳生但馬守宗矩の名も見える。

譜代大名となると、当地が江戸城の大手(正門)にあたる一帯なので、当然なことに大物大名が屋敷をかまえている。酒井・本多・井伊・榊原の、いわゆる徳川四天王を筆頭に、家康の六男松平忠輝、江戸幕府初期の大老土井利勝、名判官といわれた京都所司代の板倉重宗、長篠の籠城戦を勝ち抜いた奥平氏、武田信玄に「家康に過ぎたる者」と武勇を賞讃された本多平八郎忠勝、雅楽頭・左衛門尉の両酒井家など、枚挙にいとまがない。

この時期はまた、この一帯に賜邸された旗本・諸侯の数も多い。本書の収録地域での江戸全期の平均は六十家前後なのに、『慶長図』では倍ちかい百九家におよんでいる。まだ幕藩体制はかたまらず、従って賜邸の基準もあいまいで、あるていど申告順であったようである。

譜代と外様の比率も、幕末に近い『天保図』では、五十八家中外様はわずか六家の一〇・三%であるのに、『慶長図』では三十七家と三四%を占め、このあたりからも、外様対策を課題とした、以後の幕政の狙いがうかがえるのである。

この絵図は「武州豊嶋郡江戸庄図』といい、最初の木版図である。全体を美しく描くことに重点がおかれ、絵図の特徴である大名屋敷名を、屋敷の向きと一致させる方法をやめ、一定方向に統一してあるので、回転させながら見る必要がなくなった。そのため原典のひとつとされ、寛永年間だけでも五年、七年、九年、十三年、十五年と、屋敷名を訂正するだけで重版されている。以降も刊行はつづき、ここに原本とした図も、寛永から百六、七十年たった寛政二年(一七九〇)に、探検・測量の大家、近藤重蔵守重が模写したといわれる寛永九年図である。

この図のおもしろい点は、明暦大火で焼失したままの江戸城天守閣が百四十年間も描き継がれていることである。そこに精度云々の問題以前に、絵図としての美しさが評価されてきたことがわかり、増補改訂された実用部分と、天守閣焼失以前の寛永図の複刻部分とが、なんの抵抗もなく混合しているのである。

寛永年間は「生まれながらの将軍」といわれた三代家光時代という印象がつよい。幕府の基礎も創成時よりはかなりかたまったとみて、制度面では十二年六月、前年八月から実施した譜代大名妻子の江戸定住のあとをうけて、『武家諸法度』を改定し、いよいよ外様大名の参勤交代が制度化され、丸の内一帯の大名屋敷の機能が一段と重要になった。

財政面では寛永十三年、江戸と近江坂本に銭座を置き、『寛永通宝』を鋳造すると同時に銭貨の私鋳を全面禁止した。これも幕府体制が安定に向かっていればこその施策であった。

こうした安定度も、遠隔の地・九州にはおよばなかった。寛永十四年十月、圧政に反発した島原地方のキリシタン農民一揆に端を発した騒動は、天草地方の教徒と、関ヶ原や大坂の陣に敗れた浪人団を巻き込んで内戦に拡大し、完全終結は翌年四月になった。

この時代はまた、廃絶の嵐が吹き荒れた。家光在職の二十八年間に、廃絶家三十五家をふくめ、なんらかの処分対象となった大名家は六十五家に達した。この数は、つぎの二十八年間の二十四家にくらべて圧倒的に多い。幕藩体制の確立にみせた、家光のいわゆる「強き御政務」のあらわれである。

その犠牲になった大名家が当地区にもかなりいる。最上、里見といった名族もこの時期潰えたが、大物は福島正則と本多正純であろう。外様と譜代のちがいをこえての廃絶であり、大ナタは親藩にすら容赦なく振われた。慶長図で大手前の一角を占めながら、寛永図では消えている家康の六男・松平忠輝もその一人である。

慶長図で百九家をかぞえた大名家は、廃絶や減封移転を機会に整備もすすみ、寛永図では九十四家に減り、うち外様大名は三十二家。幕府閣僚としては大老一、老中五、寺社奉行二が居住している。

この図は『新添江戸之図』といい、「明暦三年(一六五七)正月 板本 日本橋二丁目 太郎右衛門」と、初めて刊行者名が入った絵図である。なお板本は版元と同意義である。

明暦三年正月は、都市機能が活発・安定した江戸が、十八・十九日にかけての三回の出火で三分の二が焦土と化し、大坂城のをしのいだ天守閣も、完成後わずか三十三年で焼失、豪壮華麗をきわめた大名屋敷も全滅し、いわゆる”古江戸”は家康入府以来六十七年で消滅した悪夢ともいうべき月であった。

この頃の江戸の規模は、十三年前の正保元年の記録でさえすでに約四十四平方キロメートルに発展していた。当時の地方城下町の平均が二平方キロメートル、京都・大坂すら江戸の半分以下だから、つい半世紀前の、安土桃山時代の常識をはるかに超えた巨大都市であり、大火は史上初の大都市型災害であった。

幕府は災害の大きさもさることながら、天下の総城下・江戸が、かくも脆く、簡単に全滅したことに強い衝撃をうけた。そのため再建には、まず都市としての実態を把握する必要があるとして、大目付で兵学の大家である北条安房守氏長に、江戸の実測と地図作成を命じた。氏長は小田原北条氏の一族で、滅亡まぎわ家康に誘われて麾下となった左衛門大夫氏勝(慶長図・西丸下11)の孫である。

氏長が集めた人材によって作業は進められ、当時「町見術」といった三角測量により、当時の建築基準寸法である、京間の五間を分とする縮尺率で、三二五〇分ノーの実測図を完成した(京間一間=六尺五寸=約一・九m、一分=十分ノ一寸=約三mm)

これはそれまでの地図が「絵図」であるように、見たままにとらえただけで絶対的な数値をあらわしていないことにくらべ、地図制作上も画期的なことであった。だが幕府は軍事上の機密を理由に公刊せず、ようやく陽の目を見たのは寛文十年(一六七〇)、日本橋の経師屋加兵衛刊行の『新版江戸大絵図』(一五六〇mm✕一六三五mm)によってであった。以後この図は、数ある江戸図中にあってもっとも精度が高いとされ、明治時代まで使われた。

明暦図は、焼亡直前のいわゆる”古江戸”の姿をつたえる貴重な一枚だが、この大火を機会に、城外へ立退きとなった紀伊・尾張・水戸の御三家が、移転前のまま城内の半蔵門側に描かれている最終の絵図でもある。

幕府の復興着手はすばやく、三月十五日には江戸城再建工事が始まった。天守閣も再建される計画であったが、元老保科正之の無用論が通り、ついにそのまま再建されなかった。

御三家の郭外移転にともない、城周辺の大名たちの屋敷替えもおこなわれ、大名小路一帯の外様大名の大部分は外堀外へ転出させられ、その結果、寛永図で三十二家あった外様は二十家に激減した。屋敷の規模も規制され、それまで堂々たる大屋根を誇っていた御殿は、梁間三間(約五・七m)の規制でおなじ面積ながら、これも防災上中庭を抱く形に変わった。

承応2年(1653年)の江戸城周辺図

承応2年(1653年)の江戸城周辺図

悪夢の明暦の大火 -古江戸全焼-

明暦3年(1657年)の年明け早々、正月18日と19日にわたり3回の出火で、開府以来50年余営々と築きあげ、町方の推定人口50余万人の大都会に成長していた江戸は、その60%を焼失した。
この年は前年の夏以来好天が続き、なによりも消防組織がまだ整備されていない時代という、きわめて悪条件下の火災であった。
天守閣は、降りそそぐ火の粉を浴びながらついに焼け落ちた。完成後、わずか33年しか経っていなかった。惜しいことにこの大火で、家康入府以来の、いわゆる“古江戸”は消滅したのであった。
(三代将軍家光の異母弟で、四代将軍家綱の後見役となった会津藩主保科正之は、被災者の早急な救済と民生安定、長期的展望に基づく江戸市街の災害復興が最優先と考え、江戸幕府の権威権力の象徴と考えられていた天守閣も、今はその再建のために国の財産を費やす時節ではないと判断して先延ばしを決定。以後も再建されることはなかった。)

「江戸名所」数奇屋河岸から日比谷を見る (安藤広重 画)

「江戸名所」数奇屋河岸から日比谷を見る (安藤広重 画)

明暦の大火に懲りた幕府は、その翌年の万治元年(1658年)、「江戸中定火之番」、すなわち「定火消」を設けた。これまでの江戸にはまだ消防組織はなく、武家屋敷の火災は大名旗本が、町方のは町人たちが消火にあたっていた。

定火消は、当初は4名の旗本に、それぞれ半蔵門外、飯田町、御茶ノ水上、市ヶ谷左内坂に火消屋敷を与え、与力6名、同心30名を配属した程度だったが、その後増員を重ね、寛文2年(1662年)には十隊に増え、その時、いま明治生命館になっている馬場先御門角に「八代洲河岸鉄砲組」として新設された。将軍親衛隊に弓組と鉄砲組があり、加役といって、そこからの出向だからである。

浮世絵師の安藤広重も、八代洲河岸の定火消同心、安藤源右衛門の子に生まれ、15歳で歌川豊広の門下生になってのちも、27歳頃まで同心をつとめていた。

明暦の大火をきっかけに、伝奏屋敷の一隅に評定所が新たに設けられた。評定所は幕府の訴訟裁決機関で、いわば最高裁判所にあたり、寺社・勘定・町の三奉行個々では専決できそうもない問題を裁決したほか、老中の諮問にも応じた。

評定所の南隣りに細長い敷地を占めていた伝奏屋敷があった。屋敷は伝奏使や勅使の宿舎であり、その応接にあたるのが幕府高家衆で、足利幕府以来の名家二十六家が世襲でつとめ、その筆頭が吉良家であった。

この大災害をテコに抜本的な都市計画が立てられ、“古江戸”に代わる“新生の江戸”が、元禄の隆盛期に向かっていく。新興都市江戸は、慶長のはじめ頃、郡部を入れても10万未満といわれた人口が、80年経った元禄時代には、はやくも武士・町人とも50万ずつ、あわせて100万に膨れ上がり、世界屈指の大都市に成長した。

緑図のベースになっているのは、元禄二年(一六八九)春に相模屋太兵衛が板行した『江戸図鑑綱目 坤』と、同八年、佐藤四郎右衛門板行の『江戸図正大 全』の二点である。この二枚も十数年間にわたって増補改訂されたので、大名当主の生没は正確ではない。

たとえば大名小路の堀玄蕃の襲封は元禄十年であり、大手町の水野監物は十二年である。従ってこの図は二年から十三、四年に居住の諸侯を収録した形となった。

図中合計八十八家のうち、外様が十七家に減少した理由は、明暦図で触れたように大火後の整備計画による。また本図の大手町中央に、「心除地」として大手町ビル三棟分ほどの空地が設けられたのが特徴的で、大火対策の一つである。

閣僚は大老格一、老中五、若年寄三、寺社奉行二、奏者番と側用人各一の十三人だが、側用人は二千石から出発し、二十三年後には五万三千石の大名になった五代将軍綱吉の側近・牧野成貞である。それともう一人、側用人から大老格に昇りつめた超大物の柳沢吉保が大手町にいる。吉保の栄進ぶりは牧野成貞のおよぶところではなく、出世速度からしても、五百三十石の小姓から七万石になるまでが十八年間、その四年後には老中首座(大老格)十五万石、将軍の来訪は五十八回という、徳川一門なみの異例ぶりである。

元禄時代は幕藩体制の基礎が固まり、農業生産、商品経済の発展と町人の台頭などによって、学問、文化面にこれまでにない清新の気風がみなぎった。しかし史上最悪の法令といわれる、「生類憐み令」のエスカレートによる幕府不信感の蔓延。いっぽう幕政は、側用人の偏重、勘定奉行荻原重秀の放漫財政などにより、財政は悪化し、対応策として貨幣の改鋳や年貢の増徴を実施したが、徐々に不健全に向かっていった。

そうした世情を緊張させたのが赤穂浪士団の吉良邸討入り事件であった。元禄図には吉良上野介が鍛治橋門内に、事件の発端となった伝奏屋敷のほか、事件の処理にあたった閣僚、月番老中の土屋相模守政直以下、老中の秋元但馬守喬知、稲葉丹後守正征、阿部豊後守正武、それと浪士を預かった細川越中守綱利、水野監物忠之などの名が見えている。

この時期は、最後の内戦である島原・天草の乱から四~五十年が過ぎ、現代流にいえば「もはや戦後ではない」時代である。各家の当主も二代目か三代目、短命な家系、あるいは高齢の初代で始まった家は四代目をかぞえ「生まれながらのお大名」当主がほとんどになった。

同時にこの時期には、外堀外へ転出させられなかった外様大名が、この地一帯に定住し、なかには松平姓をもらい、有力外様の様相を見せ始めた。肥後熊本五十四万石の細川家、備前岡山三十二万石池田家、阿波徳島二十五万石蜂須賀家、土佐高知二十四万石の山内家、美作津山十八万六千五百石森家などである。そしてこの頃には、大手町から外様は消えている。

享保図は、須原屋茂兵衛版の刊行名が入った『分間江戸大絵図 全』の、享保五年(一七二〇)版と同十七年(一七三二)版をベースにした。

享保年代は、一七一六年六月二十二日から一七三六年四月二十七日までの約二十年間だが、これは寛永と並ぶ最長期間である。また享保二十年(一七三五)は、慶長八年の幕府開設と、滅亡の慶応三年までにそれぞれ一三二年間で、江戸幕府のちょうど中間点にあたっている。

この時期の将軍は八代吉宗で、享保元年八月から享保全期と元文を四年、寛保の三年をへて延享二年まで、二十九年一ヵ月在職した。紀伊徳川家に生まれ、二十二歳で和歌山藩主となったが、三十三歳のとき七代将軍家継の遺言によって徳川宗家を相続し、将軍となった。終生家康を見習うことを信条とした、徳川幕府中興の英主と評価されている。

吉宗は幕藩体制の安定と強化のため、将軍直裁をつよめて幕府の官僚体制を整備し、財政難に苦しんでいた旗本・御家人の救済につとめる一方、農政面では年貢の収納をきびしくもしたが、新田開発や、甘藷など新しい農作物の栽培を奨励した。民政面では「目安箱」を設けるなど、いわゆる「享保の改革」を推進し、初期の目的である幕府の支配体制の補強にある程度の成功をみた。その一端をになったのが町奉行大岡忠相で、この図に名が見える。

ほぼ順調だった吉宗政権をおびやかしたのが、享保十七年の、空前絶後といってよいイナゴの大発生を要因とする、伊勢・近畿・中国地方一帯を中心に、全国的に被害がおよんだ大飢健であった。

多くの餓死者が出て、窮民は洪水のように都市へ流入し、米価はいちじるしく高騰した。そのため翌年正月には江戸でも大規模な打毀しが発生、幕府は租米の放出、米価の抑制などの救済措置を講じたが、危機をのりきれたのは、幸いにも翌十九、二十年とつづいた豊作のおかげであった。自然から打撃をうけ、自然によって救われる、これが農本国家の宿命であった。

この年代の大名小路一帯の大名家も、イナゴ飢健の対策に追われた藩が多く、この飢饉の規模が推定できる。

この時期の旗本・大名家は六十家、うち外様は『元禄図』の半数に減り、大名小路の細川・両池田(岡山・鳥取)・山内・蜂須賀・溝口・織田・堀の八家となった。

閣僚は合計十三人いる。まず本丸老中は四人、本多忠良(大名小路)、酒井忠音(大手前)、松平信祝・松平乗邑(西丸下)。西丸老中は松平乗賢(大手町)一人。側用人は本丸が巨勢至信、西丸が安藤愛定。若年寄は水野忠定(馬場先門内)、小出英貞・本多忠統(西丸下)。寺社奉行が牧野貞通・井上正之(大名小路)。そして奏者番の秋元喬房(大名小路)である。こう見てくると、西丸下と馬場先門内は、九家中五家が閣僚であり、いっそう役宅街の色彩がつよまったことがうかがえる。

この図は明和八年(一七七一)、日本橋南一丁目・須原屋茂兵衛版行の『無題』のものと、同九年刊行の江見屋吉衛門と山田屋三四郎版の『新版御江戸絵図 全』および同じ蔵版名と、五年後の『安永六年新刻』と刊行名のある『太平御江戸絵図』の三点をベースとした。

明和時代は一七六四年六月二日の元年から、一七七二年の同九年十一月十五日に『安永』と改元されて終わる。将軍は宝暦十年(一七六〇)九月二日以来十代家治で、明和・安永をへて天明六年(一七八六)九月八日まで在位した。二十六年間の在位は、歴代将軍中六番目の長期政権である。

この時代は側用人と老中を兼務という、幕府始まって以来、大老をこえる最高権力を手中にした田沼意次の、いわゆる「田沼時代」である。

田沼政権の特徴は、経済面では問屋・株仲間を育成強化し、これらの商業資本と提携して幕府財政の強化をはかり、農政面では農作物の開発と栽培を奨励した。また下総印旛沼の大規模な開拓計画や、貨幣の増鋳といった積極政策を実施し、それなりの実績をあげた。そのため将軍の信任は高まったが、武士の困窮に拍車をかける結果となり、さらに後年の天明の大飢饉に、目ぼしい対策が立てられなかったなどで、世の反感をかって失脚した。

明和年間はまた、七年から八年にかけて全国規模の旱魃が襲い、諸藩は対策に苦慮するさなか、翌九年二月末、江戸はかつての明暦の大火(一六五七年)以来の大火災にみまわれた。世に「目黒行人坂の火事」と呼ばれる大火である。延焼面積は江戸市中の三分の一をこえ、大名小路の屋敷街も、明暦の大火以来百十五年にしてふたたび壊滅した。その意味で明和八・九年図は、焼亡直前の大名小路の屋敷配置図ということになる。

火災のつぎは水難であった。明和九年秋、東北から九州まで、全国各地で水害が発生し、江戸もようやく復興なった家々が風水害に襲われた。

このように明和九年は「迷惑な年」とあって、十一月十六日をもって安永と改元したが、翌二年(一七七三)には疫痢が大流行し、江戸の死者は十九万人におよんだ。さらに七年には伊豆大島が噴火、翌八年には鹿児島桜島が大爆発と、せっかくの改元も効果なしとみた民衆は、
“年号は安く永くと変われども諸色高直いまにめいわ九”
の落首に憤懣を託した。諸色高直は諸物価の高騰をいう。

この時代の旗本・大名家は五十九家、うち外様は『享保図』から不動の、岡山・鳥取の両池田、山内、蜂須賀、溝口、堀、そして細川の七家である。閣僚は大手前の田沼意次を筆頭に、老中は板倉勝清、松平武元、松平(大河内)輝高、松平康福の五人。若年寄は酒井忠休、水野忠友、同忠見、鳥居忠蔵意、酒井忠香、加納久堅の六人。西丸若年寄は阿部正允一人。奏者番は井伊直朗、西尾忠需・松平(戸田)光和の三人。寺社奉行は牧野貞長一人である。

江戸の繁栄にかげりをみせはじめる時代

明暦の大火(1657年)から立ち直った大名屋敷は高い築地塀にかこまれ、例外なく直線的に区画されている。しかもその一辺が、例えば丸ビル・郵船ビル・三菱商事ビルにまたがる備前岡山藩主池田家のような三十二万石の大々名の屋敷だと130mにもなる。「夕立を四角に逃げる丸の内」、そこで夕立にあったら最後、近道がないからこの川柳のように走る以外にない。

元禄の頃から生活様式が変化し、武士階級の窮迫は目に余るものがあった。明和4年(1767年)に十代将軍家治の側用人となった田沼意次は、めきめき頭角を現し、老中に進んでから失脚するまでの17年間に賄賂・請託・饗応が公然とおこなわれ、綱紀の紊乱を招いた。意次の頃には大名家の財政はほとんど破産状態といってよく、幕府の方針としては収賄を歓迎していなかった。

明和9年(1772年)、目黒行人坂の大円寺という寺からの出火が、折からの強風にあおられて四方に飛び火した。火勢の一つは、芝白金から麻布、西久保を焼いて桜田から江戸城内に延焼し、さらに西丸下から大手前の幕府閣老の役宅多数を焼いて、神田、和田倉、馬場先、日比谷の各門を焼き、辰ノ口の評定所、伝奏屋敷をはじめ大名小路の大小名邸を次々に焼いた。豪壮を極めた大名小路の屋敷街は一夜にして灰となり、一望の焼野が原と化した。

この図は馬喰町二丁目・永寿堂西村与八再版の刊行者名がある「再版新改御江戸絵図』の、寛政八年(一七九六)と同九年版、それとおなじ九年刊の芝神明前・奥村喜兵衛板と奥書きのある「新版江戸安見図」の三点をベースとした。

この時代の将軍は十一代家斉。在位期間は天明七年(一七八七)四月から天保八年(一八三七)四月までのちょうど五十年、元号にして天明・寛政・享和・文化・文政、そして天保と六代におよぶ歴代将軍中最長である。

この時代は田沼意次の失政の影響を背負いながら始まる。

意次の商業中心の積極政策は、商品経済の発展をみた反面、幕藩制の基礎である本百姓(責租負担層)の生計を圧迫、貧窮化に拍車をかけ、田畑を維持できずに潰れる者が続出し、農村の荒廃を招いた。この傾向は天領(幕府直轄地)だけでなく、各藩領にも見られたため、藩財政を圧迫し、武士社会全体も貧窮に追い込まれた。そのうえ田沼時代が残した最大の悪弊である、賄賂の横行を主要因とする幕政の腐敗に対しての不信感の蔓延である。

こうした情勢を打破するための、老中首座松平定信による寛政の改革は、天明七年(一七八七) 七月から寛政五年(一七九三)七月まで六年間おこなわれた。しかし田沼失脚を早めた天明の飢饉の傷あとは深く、餓死と疫病で、約九十二万人が全国で死亡したといわれ、それからの立ち直りは容易ではなかった。

それでも定信は、巨大化した商業資本への圧迫、風俗の粛清、棄捐令(債権を破棄させる強権)による旗本・御家人の救済、さらに「異学の禁」といわれる官学の朱子学以外の学間を禁じたりすることで、旧来の土・農を中心とする本来の封建社会にもどそうとしたが、改制があまりにも微細にわたりすぎたために不評を買い、寛政五年七月、老中を辞任してしまった。

寛政十一年(一七九九)一月十五日、幕府は一大刊行事業である「寛政重修諸家譜」の編集に着手した。総裁は寛政二年六月から若年寄に任じられ、このときは官学府の湯島聖堂再建奉行を兼ねていた滋賀県堅田藩一万石の堀田摂津守正敦(文化/文政図・大手前3)で、林述斎以下、多くの秀才が従事した。同書は江戸幕府研究にかかせない資料であり、大名・旗本・幕臣の系譜を網羅した一千五百三十巻の集大成で、十三年後の文化九年成立した。

この時期の旗本・大名は五十九家、うち外様は前掲の「明和図』と変わらずで、岡山・鳥取の両池田、山内(土佐高知)、蜂須賀(阿波徳島)、溝口(越後新発田)、堀(信濃飯田)、細川(肥後熊本)の七家である。

閣僚は七人と少なく、老中は大名小路の松平信明と安藤信成、戸田氏教の三名。若年寄は大名小路の井伊直朗一名、寺社奉行は同土井利厚と松平(大河内)輝和の二名、奏者番は同松平乗保と西丸下の水野忠韶の二名である。

この図は文化三年(一八〇六)の永寿堂西村与八板「文化改正江戸絵図 全』と、同十四年(一八一七)の伊能忠敬測量『江戸府内図(江戸実測図)」(東京市役所編纂「東京市史稿市街篇』第三附図)をベースとした。

将軍は十一代家斉がそのまま在位する文化・文政の、いわゆる「化政期」で、幕藩体制はいくつかの矛盾をかかえながらも不思議と一揆や凶作・災害が少ない、表面的には平穏な時代であった。そうした世情の影響で、江戸を中心に町人文化がさかえ、江戸文化を代表する文学・絵画・演芸・学術のほとんどがこの時期に成熟した。滝沢馬琴、十返舎一九、式亭三馬、喜多川歌麿、葛飾北斎らの活躍のほかに、杉田玄白の『蘭学事始』、『寛政重修諸家譜』の完成、さらには間宮林蔵による「マミヤ海峡」の発見などである。

このように化政期は、総体的には江戸幕府最後の安定期だが、おなじ文化の爛熟期といっても、元禄文化にみられた上がバイタリティは失われ、享楽追求型の退廃的な傾向が強かった。

時代の安定度をあらわすものに、老中の任期がある。

江戸全期の老中・大老と、それぞれに準ずる「格」および再任をふくめた人数は百八十九名で、平均任期は七年七ヵ月である。それがこの時期の四人の老中の任期を就任順にみると、

●牧野忠精(越後長岡 七万四千石)享和一年七月十一日〜文化十三年十月十三日・十五年三ヵ月。
●土井利厚(下総古河 七万石)享和二年十月十九日~文政五年七月七日・十九年九ヵ月。
●青山忠裕(丹波篠山 五万石)文化一年一月二十三日~天保六年五月六日・三十一年四ヵ月。
●松平言明(三河吉田 七万石)文化三年五月二十五日~文化十四年八月二十九日・十一年三ヵ月。

となっていて、平均の十九年五ヵ月は全期平均の三倍ちかく、とくに青山忠裕の三十一年四ヵ月は、寛永十年(一六三三)からの、阿部忠秋の三十二年につぐ二番目の長期である。

ちなみに安政年間以後はきわめて短期となり、三十九人中一ヵ月が四人、一年未満九人、二年未満十九人、三年未満六人、そして最長でも四年三ヵ月一人と、幕末時代の転変をあらわしている。

つぎに本図で初めてあらわれる藩は、出羽高畠藩(山形県東置賜郡=織田信浮)上総貝淵藩(千葉県木更津市=林忠英)、近江堅田藩(滋賀県大津市=堀田正敦)、大和高取藩(奈良県高市郡=植村家長)、豊前小倉新田藩(福岡県北九州市=小笠原貞温)の五藩であり、反対に前図にあって本図から消えた藩は、陸奥下村、上野安中、美濃郡上、越後高田、伊勢東阿倉川(四日市市)、出雲母里、伊予松山の七藩である。

図上の旗本・大名家は五十七、うち外様は前図とおなじ池田ほか七家。閣僚は老中四、若年寄五、側用人一、寺社奉行二、奏者番五の十七名と多い。

本図は文政八年(一八二五)と同十二年に刊行の須原屋茂兵衛蔵版『分間江戸大絵図 完』をベースとした。

この時代は先の文化年間にひきつづき、ますます商業資本は増大し、大町人の力が支配的となって、実質的に身分制が崩れはじめ、大町人以外、武士も農民も困窮し、幕府がこころみた寛政の改革でも、建て直しは根本的に不可能であった。

将軍は天明七年(一七八七)四月いらいの十一代家斉がその職にあった。

家斉は御三卿の”一橋刑部卿治済の長男に生まれ、天明元年九歳のとき十代将軍家治の養子となり、十五歳で将軍職を継いだ。就任当初は新進気鋭の青年君主らしく、奥州白河藩主松平定信を老中首座に据え、寛政の改革を断行した。定信失脚後は直政をしいたものの、節倹政策の反動で幕政はゆるみ、大奥の華美驕奢は目にあまり、よくいえば「化・政文化」の母胎となったが、反面、幕府財政をいっそう窮乏に追い込んだ。

その原因と無関係ではないのが、家斉が延べ四十人の側室のうち、十七人に生ませて成人した男十三人、女十二人の子たちを縁づけるために要した、莫大な持参金代わりの、直轄領からの万石単位の加増費用であった。

丸の内界隈もこれという事変はない時代だが、目につくこととして、文政九年(一八二六)七月十一日、江戸城曲輪付近での花火が禁じられている。

この図での屋敷数は六十、うち幕府機関は評定所、伝奏屋敷のほかに南・北町奉行所、定火消屋敷の五カ所。施設は物置二と馬屋一だが、馬屋は関係役人の役宅でもある。旗本は儒官の林大学頭述斎、南町奉行・筒井和泉守政憲、北町奉行・榊原主計頭忠之の四家。

外様大名は前図から不動の岡山・鳥取の両池田家、出羽高畠の織田家、阿波徳島の蜂須賀家、土佐高知の山内家、肥後熊本の細川家、それと信濃飯田の堀家の同族、信濃須坂堀家が加わって八家にふえた。

前図につづき本図も閣僚が多い。西丸下と馬場先門、和田倉門内はもともと重臣の役宅地域だが、この図では馬屋を除く九家のうち、会津松平家、武蔵忍の松平(奥平)家以外の七家が閣僚である。すなわち老中は青山下野守、松平(松井)周防守。若年寄は森川内膳正、京極上総介、水野壱岐守、本多遠江守、植村駿河守の五家。大手前では水野出羽守が老中、堀田摂津守が若年寄である。

大名小路では、老中が大久保加賀守、牧野備前守、松平和泉守、松平能登守の四家。若年寄は増山河内守、永井肥前守、堀大和守、林肥後守の四家。側用人は田沼玄蕃頭一家。寺社奉行は松平(戸田)丹波守と、のちに老中にすすむ土井大炊頭の二家があり、奏者番の牧野越中守を加えて二十家の多きにのぼっている。

この図は扶持米百俵(三十五石)前後の御家人が集まる芝御組屋敷与力という、幕臣出身の戯作者高井蘭山が校訂し、天保三年(一八三二)に芝神明前の尚古堂岡田屋嘉七が版行した「泰平御江戸絵図」(天保補益再版図)をベースとした。

この時期の将軍は、天明七年(一七八七) 四月から、寛政・享和・文化・文政、そして天保と、六代五十年間その座にあった十一代家斉である。

文政年間から顕著となった幕府財政の窮乏は、天保期に入ってさらに強まった。とくに天保四年(一八三三)の天候不順がもたらした冷害・洪水・大風雨によって、米の作柄は三分作からよくて七分作にとどまり、その影響で米価は高騰した。 不作はなおも翌年、翌々年とつづき、天保七年になってついに作柄の全国平均は四分どまりという、慢性的でしかも大規模飢饉のようすをみせはじめた。

米価の高騰は諸物価を引き上げ、農村は荒れ、農民や下層町人の離散や困窮ぶりははなはだしく、人肉を食べた記録すら生まれたほどであった。 幕府も現米の給付や救小屋の設置、酒造の制限、小売価額の引き下げ、囲米の売却、回米の見直し策、隠し米の摘発などをおこなったが、いずれも不十分であったため、ついに天保八年(一八三七)、大坂町奉行所与力で国学者の大塩平八郎による武力蜂起という、幕府創業いらいはじめての、幕臣によるクーデターを許すこととなって威信を失墜した。

この年家斉は、将軍職を十二代家慶にゆずったが、なお西丸にあって大御所と称し、その後も四年間実権を握っていた。そのため家慶は、当時としては高齢の四十五歳でようやく実権を手にし、天保十年(一八三九)、水野忠邦を老中首座に任じて改革に着手した。その目標は享保・寛政改革への復帰であり、奢侈の禁止、風俗の粛正を柱として庶民生活を極端に統制し、農民の都市流入をふせごうとした。また経済政策では、株仲間と問屋組合による市場の独占を解体して自由取引とし、幕府の直接統制をこころみたが効果はあがらず、最後に忠邦は、江戸十里四方、大坂四里四方(十里四方とも)を天領とする「上知(地)令」を発動して旗本・大名の猛反発にあい、ついに老中罷免に追い込まれ、天保の改革は挫折した。

全国を凶作の暗雲が覆いはじめた天保五年の二月十日、大名小路の半分が焼失した。いまの東京駅丸の内北口一帯を占めていた、奏者番で丹後宮津藩七万石の松平(本庄)伯耆守の屋敷から出火、おりからの北西の強風に煽られた火は、たちまち風下の大名屋敷を焼き、鍛冶橋と数寄屋橋の御門を焼いて町家へ延焼、芝方面まで焼きつくした。焼け出された各大名家は、財政難のため、上屋敷再建に血のにじむ労苦をしいられた。

この時期の閣僚は二十家と、きわめて多数なのもこうした時代を反映しているといえよう。

崩壊のきざしが見えた幕藩体制

十一代将軍家斉の在位は実に半世紀の長きにわたり、政治的にもいくつかの転換があったが、江戸文化の最盛期といわれる文化・文政期を中心に町人文化が栄えた時期であり、全体的には退廃的雰囲気の強い時代であった。
国内にも新しい思想が生まれ、徳川幕府創成以来二百年にして近代化の風潮が見えはじめてきた。
家斉は奥州白川藩の三代当主松平定信を重用して、いわゆる寛政の改革を推し進めたが、成人に達し補佐役が不要になったとして定信を罷免し自ら政治をおこなった。老中の水野出羽守忠成が権勢をふるい、この時もまた賄賂が公然と横行し、幕政の腐敗を招いた。
幕藩体制が敷かれて以来、諸大名の領国経営は一度として好転したことはなく、寛政改革が進められた頃はどの藩の財政も破綻寸前に追い込まれ、財政難は藩士と農民を圧迫した。

幕府政治は深刻な危機に臨んでいたが、その危機は国内情勢だけが招いたのではなかった。日本に迫りつつある外国勢力であり、なかでも鎖国政策にくるまれてきた日本人を最初に驚かせたのはロシアであった。こうした北方情勢の緊張のなかにあってなお、文化・文政の爛熟した風潮は頂点に達し、譜代大名のなかには封建制度の崩壊を真剣に憂慮する者も出てきた。

天保年間に入ると、大名小路一帯は不思議なほど災害が続いた。天保3年(1832年)に、西丸下の水野忠邦の屋敷が失火。同5年には松平(本庄)伯耆守宗発の屋敷から出火し、隣接の屋敷や鍛冶橋御門、数寄屋橋御門を焼いて、築地から芝方面に延焼という大火になった。同9年、江戸城西丸から出火して殿舎が全焼したが、この時はじめて町火消が城中に入った。

この図は嘉永七年(一八五四)の秋、十一月二十七日に「安政」と改元になる直前「東部書肆」の須原屋茂兵衛、山城屋佐兵衛、小林新兵衛、山崎屋清七、上州屋重蔵刊行の『嘉永改正大宝御江戸絵図』、同年刊行の萬屋庄助版「嘉永図』、それと嘉永年間は安政と合わせても十三年間と短いので、安政二年刊の『安政二乙卯十月二日大地震場所之図』、同六年刊行の須原屋以下七名の相版(共同出版)による『安政改正府郷御江戸絵図」も参考にした。

将軍は嘉永六年六月までが十二代家慶 、同年十月からは家定が十三代として安政五年(一八五八) 七月まで在任した。

この時代は世界の列強の圧力によって、国内の政争を経ながらわが国が徐々に世界の資本主義の中に包摂されてゆく、いわば明治維新の始動期といってよく、幕府重臣にも、そうした時勢に適したこれまでにないタイプの阿部正弘が、老中首座としてほぼ十年間政権を担当した。
正弘はベリーの来航を、国政の基本にかかわる重大事として朝廷に報告する一方、有力大名や幕府役人に施策方針を諮問するという、このときまでの幕府首脳にはまったくなかった形で政治を推進した。これが正弘の主眼とする協調、すなわち挙国政策であったが、他方、朝廷が伝統的権威から政治の舞台化するきっかけと、天保以後の改革に、あるていど成功して力をたくわえた西南雄藩の、中央政局への発言の機会をあたえる動機ともなった。

外国艦船の対馬、五島列島、蝦夷地、陸奥海岸への出没で始まった嘉永は、六年六月三日のペリー艦隊の来訪、翌七年一月の再来、ロシア、イギリス、オランダ船の来航をもってあわただしく安政に改元された。

安政四年(一八五七)六月、阿部正弘が激務のなかに三十九歳の若さで没し、堀田備中守正篤(正睦)が政権をひきついだ。おりから次代将軍の継嗣問題をきっかけに、前水戸藩主徳川斉昭の子一橋慶喜を推挙する家門と有力外様大名の一派と、和歌山藩主慶福を擁立する譜代大名のいわゆる南紀派とが対立し、結局南紀派が勝利して五年四月、井伊直弼が大老に就任、慶福を将軍継嗣(十四代家茂)とするとともに、日米修好通商条約の調印を断行、これを違勅として反抗する側を、安政の大獄をもって弾圧した。

この図の上を流れた時代はこのように激動期であり、幕府側の主役は大部分当地に居住した。
まず老中では首座の阿部正弘、松平乗全、松平忠優、内藤信親、牧野忠雅、久世広周がいる。 若年寄は本庄道貫、酒井忠毘、本多忠徳、大岡忠固、鳥居忠挙の五名、寺社奉行は本多忠民と太田資功の二人。

奏者番は松平乗喬、水野忠順の二名。 旗本・大名家は五十五家で、うち外様は岡山・鳥取の両池田、出羽高畠の織田、阿波徳島の蜂須賀、土佐高知の山内、肥後熊本細川の六家だが、山内豊信(容堂)は薩摩の島津斉彬、福井藩主松平慶永(春嶽=大手町)、宇和島の伊達宗城らと幕政に参与、一橋慶喜を擁立して政争に敗れるなど、時代の動きをつたえている。

この図のベースは、万延元年(一八六〇)に須原屋茂兵衛が蔵版した「安政再刻江戸大絵図完』だが、万延時代は安政七年三月十八日から翌年二月十八日までの、わずか十一ヵ月で文久に改元となり、いかにも短期にすぎるので、構成にあたっては、前出「嘉永図」の出典や後出の文久年間図も参考に、約十年間をひとつの流れとしてとらえてある。

一八六〇年には時勢を象徴する二つの事件が記録されている。ひとつは年明け早々、一月十三日の軍艦咸臨丸の出航であり、もう一つは三月三日の桜田門外の変である。

咸臨丸は、米艦ポウハタン号でアメリカに渡り、大統領ブカナンに国書を呈する使臣、外国奉行の新見正興・村垣範正に随行した、オランダから購入したばかりの新造艦で百馬力の蒸気船。長さ約四十七メートル、幅七メートルで三百トン、砲十二門を搭載していた。

これを海軍奉行木村喜毅、艦長勝海舟以下九十名の日本人だけで操船し、初の太平洋横断に成功した。その後戊辰戦役では、最後まで抵抗した榎本武揚軍に属していたが、惜しいことに最後は不詳である。

三月三日の桜田門外における井伊大老暗殺事件は、「安政の大獄」の規模の大きさからみても、起こるべくして起きた事件であった。井伊大老の政策の当否は、いまだに解釈が分かれるところだが、ひとついえることは、この時期これほどに剛毅にして果断な人物は幕府に見当たらず、そのため横死後幕威はおとろえ、政治の中心は京都に移っていった。

井伊大老のあとは、この年一月十五日から老中の座についていた、陸奥国磐城平藩(福島県いわき市)五万石の安藤対馬守信正が中心となり、衰亡一途の幕威を回復しようと公武の合体をはかり、幾多の曲折を経ながらも十一月一日、孝明天皇の妹宮・和宮親子内親王の十四代将軍家茂への降嫁発表となった。 またこの間に、先の大獄によって謹慎させられていた徳川慶喜、同慶勝、松平慶永(春嶽=越前福井藩主)、山内豊信(容堂=土佐高知藩主)らを復帰させた。
しかし尊攘運動の中核であった水戸藩主徳川斉昭は、八月十五日、六十一歳で没した。
万延・文久図には艶福家でもあった徳川斉昭の、成長した十三男六女のうち、一橋慶喜(十五代将軍)、池田慶徳(鳥取藩主)、池田茂政(岡山藩主)、松平忠和(島原藩主)などの名が見えている。

万延図の幕閣は十三名。うち老中は首座の安藤信正以下、内藤信思、脇坂安宅、松平乗全、本多忠民の五名。側用人は水野忠寛一名、若年寄は五名で堀之敏、酒井忠毘、本多忠徳、牧野康哉、稲垣太篤。奏者番は牧野貞直一名。寺社奉行は松平信古一名。
旗本・大名家数は五十一、うち外様は両池田、織田、蜂須賀、山内、細川の六家と変わらず、幕府機関は評定所ほか三でこれも不動である。

この図は文久元年(一八六一) 尾張屋清七版の『御江戸大名小路絵図 完』と、同三年品川屋久蔵蔵版による『舞鶴御江戸大絵図』を主体としたが、前出の『万延図』と同様、安政・万延・文久の流れのなかでとらえてある。

一八六一年二月十九日に改元されて始まる文久年間は、公武合体論が勝を制したかに見えた時代で、二年二月十一日には和宮親子内親王と十四代将軍家茂の婚儀が江戸城で行なわれた。 しかし時勢は騒然とし、二年の年明け早々の一月十五日、井伊大老につづき、老中首座の安藤信正も水戸浪士に襲われ、四月二十三日には、薩摩藩主島津久光の命令により、京都伏見の寺田屋で同藩士有馬新七らが斬殺され、八月二十一日、その久光の行列先を横切ったとしてイギリス人が殺傷される生麦事件が起きた。さらに十二月十二日には長州藩士高杉晋作らが、品川御殿山の英国公使館を焼打ちした。

翌三年になるとさらに時勢は切迫する。三月、上洛中の浪士団が新撰組として残留、”志士符り”を開始し、四月十七日、幕府はそれまで諸大名の接近を禁じていた京都の守備を、十万石以上の大名に行なわせることとした。

攘夷運動の激化はついに外国と直接戦火をまじえる事態をまねき、五月十日、長州藩は下関沖で米船を砲撃し、ついでフランス・オランダ軍艦にも砲撃を加えたが、かえって上陸部隊に鎮圧、砲台を占領された。 七月二日には薩摩藩も鹿児島湾に来航したイギリス艦隊と砲戦した。
翌八月十八日、公武合体派のクーデターが成功し、攘夷派の三条実美ら七名の公家が長州藩に逃亡した。そして押し迫った十二月三十日、時局の収拾にあたるべく、徳川慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、それに翌元治元年一月から島津久光も加えられ、諸侯にして初めて朝議参与に任じられた。

このように、文久年間に入ると、三年三月の十四代将軍家茂の上洛を頂点として、政治の舞台は京都から西南諸国にうつり、そのため江戸は、エア・ポケットに入ったように、不安の中にも平穏をたもち、幕府の布令も、関八州取締出役(八州回り)に暴徒・浮浪の徒の鎮圧を命じたり、外国人のために辻番所に標識を立てたり、あるいは蕃書調所を一橋門外に移転(のちに東京大学・一橋大学となる)するなどだが、三年十一月十五日には再建したばかりの、江戸城本丸と二の丸が失火で焼失している。

『文久図』の屋敷数は五十五。うち幕府機関は評定所、伝奏屋敷、南・北町奉行所、畳蔵、馬屋などである。

外様大名は岡山・鳥取の両池田、織田、蜂須賀、山内、それに細川と変わらない。閣僚は老中が酒井忠績、安藤信正、久世広周、内藤信思、松平信義、本多忠民の六名。若年寄は遠山友禄、堀之敏、酒井忠毘、諏訪忠誠、水野忠精、加納久徴のやはり六名。寺社奉行・松平信古、備用人・水野忠寛、奏者番・牧野貞直の各一名づつ、合計十五名となっている。

維新前夜という時代

弘化元年(1844年)のオランダ軍艦来航をはじめ外国船が相次いで日本近海に出現した。嘉永6年(1853年)、4隻の軍艦を率いたアメリカのペリーが江戸湾に姿を現し、浦賀に停泊して開国を求める大統領親書の手交を要求した。安政元年(1854年)に日米和親条約が調印され、近代に向かっての歴史的な第一歩が踏み出されたのであった。
幕府や諸侯を揺り動かしたのは、世界の列強や国内の風潮だけでなく、江戸の大地もそれに呼応した。
安政2年(1855年)に江戸を襲った直下型地震がそれである。大名小路の被害は大きかった。大手門前の酒井雅楽守忠顕の上・中屋敷や、和田倉門番所、その内側の会津松平邸ほかは焼け、焼けなかった大名屋敷もほとんど倒壊した。

安政5年(1858年)、近江彦根三十五万石の藩主井伊掃部頭直弼が大老になった。
おりから国内外の情勢は、外からはアメリカをはじめとする世界列強が求める通商問題、国内では十四代将軍の継嗣をめぐって、紀伊徳川家の慶福を押す直弼一派と、一橋慶喜を押す島津斉彬らの激しい対立問題を抱えていた。直弼が慶福(家茂)を将軍にすると発表し、政敵である一橋慶喜を擁立した水戸斉昭を謹慎するなどの処分をしたが、この措置がのちに彼らを進歩派=尊王へ向かわせる結果を生む。
同年10月、江戸城本丸中之口から出た火で大奥が全焼している。寛永11年(1634年)の西丸全焼以来、江戸城が火を被った7回目の災害であった。

安政の大獄、桜田門外の変を経て、井伊直弼のあと幕閣の中心となったのは、陸奥磐城平五万二千石安藤対馬守信睦と、下総関宿藩主六万二千石久世大和守広周であった。安藤は二重橋前の老中屋敷に、久世もその南隣の屋敷に入った。二人は井伊の強硬路線を変更し、攘夷はいま無理だが、尊王の意思は幕府も同じであることを示すために、朝廷と密接して反幕勢力をかわそうと「公武合体」政策をとった。
文久2年(1862年)、和宮親子内親王と十四代将軍家茂の婚儀がおこなわれ、公武合体がひとつの形となったことが拍車となり、国の内外は大きく揺れ動いた。幕政と尊王攘夷という二つの国論を、強大な二国、フランスは幕府、イギリスは薩長を支援する形となり、この「英・仏抗争」は明治維新まで続き、江戸の無血開城にも大きく作用することになる。

本図は慶応元年(一八六五)に再版発行の金鱗堂尾張屋清七版『御曲輪内・大名小路絵図』と、同三年の高井蘭山校訂、岡田屋嘉七版『慶応改正御江戸大絵図」をベースとした。

この時代の将軍は七年前の安政五年十二月いらい十四代家茂だが、元治元年(一八六四)一月十五日に上洛したままであり、前図の時代よりさらに政治の中心は京都に移ったという印象である。

文久三年(一八六三)八月の政争に敗れた長州藩は、失地の回復を念願して上洛を強行し、会津・桑名・薩摩などの諸藩と御所禁門で銃戦、いわゆる「甲子禁闕発砲ノ変」を起こした。幕府は朝命により征長の軍を出動させたが、毛利氏は老臣を自害させて謝罪したため撤兵した。しかしこれを不満とする一派が長州藩論を対幕戦にまとめて軍備したので、幕府は長州再征を決し、家茂も大坂城に出陣した。慶応元年五月のことである。

同十月、英・仏・米・蘭の四国は軍艦九隻を大坂湾に進め、先の安政五年の仮条約の実行と兵庫開港を迫った。内外情勢の切迫に苦慮した幕府は、条約の勅許を奏請した。 朝廷も、世界の態勢上いまはやむをえずと許可した。ただし兵庫開港は慶応三年五月になる。

外交上の紛議は収まったが、長州再征は長州藩の抵抗にあって停滞するなかで、翌慶応二年七月二十日、大坂在陣のまま家茂が二十一歳の若さで没したため、朝廷は詔勅により停戦させ、十二月五日、孝明天皇の命令で慶喜が十五代将軍となったものの、同月二十五日には孝明天皇も急逝され、睦仁親王が十六歳で践祚した。明治天皇である。

この頃になると、幕府は内外の政務を処理する力を失った。 それに乗じ、先には敵視しあった薩・長は、土佐の周旋で連合し討幕を画策した。急進派の公家もひそかに王政復古を策し、やがて二派は結合、討幕の密勅を得て軍行動をおこそうとした。 変動を察知した土佐藩主山内容堂は先手を打ち、慶喜を説き、幕府より朝廷に政権を返上させて時局を収拾した。 「大政奉還」である。 慶応三年十月十四日のことで、討幕の密勅が下ったのと同日であった。

これにより、徳川家康が征夷大将軍に補任されてから、二百六十四年にして江戸幕府は実権を失ったのであった。

最後の閣僚は老中が七名。 阿部正外、水野忠精、松平康英、同(本庄)宗秀、本多忠民、牧野忠恭、それと外様の松前氏、最初で最後の伊豆守崇広である。 若年寄も七名で、立花種恭、平岡道弘、田沼意尊、遠山友禄、増山正修、酒井忠毘、土岐頼之である。
またこの図では『文久図』の大手町の松平越前添屋敷となっていた場所が、初めて勘定奉行所となり、俊才といわれた旗本の小栗上野介忠順ほか四名の奉行が就任した。それと時勢を反映して、前回では若年寄の遠山家と酒井雅楽頭の拝借地となっている場所が、幕府の歩兵屯所に変わっている。

大名小路の尊王佐幕

慶応3年(1867年)、睦人親王が即位されて明治天皇になられると、尊王討幕派の公家岩倉具視は朝意を討幕に傾けていった。その動きを察知した土佐藩の山内容堂は、将軍慶喜に大政の奉還を勧め、慶喜もそれを容れて、同年朝廷に奉還を上奏した。
幕末の政治抗争の主題を一言でいえば、いかにして自派が天皇を擁立するかにある。薩長の討幕派は、天皇を擁して「朝権復古」を掲げて幕府を倒そうとし、その「名義」を奪い主導権を掴み返そうとするのが大政奉還派で、両派は対立しながら連繫し、そこから世界に例のない、武士階級によって行われた明治維新という変革の路線が見えてくる。

慶応元年(1865年) 御曲輪内大名小路繪圖

慶応元年(1865年) 御曲輪内大名小路繪圖

大政奉還の報が江戸にもたらされると、市民はもちろん、大名・旗本は大いに動揺した。
慶応元年(1865年)5月に十四代将軍家茂が上洛してからこの日まで、2年5カ月間将軍は江戸におらず、家茂の死や将軍継位を含めて政治の舞台は京・大阪に移り、江戸は蚊帳の外であったのである。

文久2年(1862年)勅命によって慶喜が家茂の後見職になったのと同時に、徳川御三卿の田安家に生まれながら、養子先の越前福井藩三十二万石の財政を巧みな経済政策で立て直した松平慶永が「御政治総裁職」に任命された。慶永は幕政の改革に着手し、幕軍の洋式化、幕府職制や服装制度の簡素化などを断行したほか、最大の改革は、かねてからの持論である諸侯の隔年参勤を三年一勤に、また大名妻子の江戸常住を解いたことであろう。これによって大名小路の屋敷街は証人(人質)屋敷ではなくなり、機能が半減したわけだが、これは寛永12年(1635年)の武家諸法度改正で実施してから227年ぶりの大改革であった。

松平慶永・山内容堂、前尾張藩主徳川慶勝らのえがく大政奉還後の新政権は、朝・幕の勢力均衡に立った公議政体で合ったのに対し、岩倉具視や薩摩藩主島津忠義ら討幕派は、旧幕府勢力を一切排除した、朝廷と薩長による政権樹立にあった。両派の準備段階では岩倉が主導する討幕派がはるかにリード、徳川氏の罪科を並べたて、「倒幕」の手段は「討幕」であることを明らかにして対立したが、岩倉の寝技師的裏面工作が功を奏し慶喜の処遇が決定した。だが在京阪の幕軍がおさまるはずはなく、慶応4年(1868年=明治元年)、ついに鳥羽・伏見で戦端がひらかれ、両派の全面戦争に拡大されていった。

江戸幕府の終息

3倍近い兵数を擁しながら幕軍が敗れたため、ひそかに幕艦で大阪を脱出した慶喜は江戸城に入り、十四代将軍の上洛以来2年10カ月ぶりの将軍在城となった。勘定奉行勝手方のほかに、陸・海軍奉行を兼ねていた小栗上野介忠順が主戦論を唱えたが慶喜はこれを容れず、在城1カ月ののち、恭順を表すため上野寛永寺に居を移していった。寛永寺にこもった慶喜の進退は、江戸無血開城の伏線となる卓見であった。
ここにおいて、江戸城は「天下城」としての意味を失ったのである。
天正18年、家康入城から277年6カ月目のことであった。

明治図二点のうち「明治二年図」は、同年に吉田屋文三郎版行の「官版・東京御絵図完」と、同三年刊の須原屋茂兵衛版『東京府内区分絵図 完」を底本に慶応図を参考とした。「明治十年代図」は、「二年図」との流れを参考にして、四年刊の西村・菊屋・吉田屋版『永福東京御絵図 完』を使用。 以降の推移は明治十一年刊の地理局地誌課『実測東京全図』。同年刊の西川光通編輯『麴町区図』。 明治十二年刊の児玉弥七版、十四年刊の東京府編纂『東京府管内全図』、二十年刊奎暉閣蔵版『明治改正東京全図』などをベースとした。

この時期約二十年間の特徴は、二百六十余年間、天下の総城下の偉容をささえてきた大・小名屋敷が、明治二年から三年にかけてほとんど明治新政府の庁舎に接収されたことで、ちょうど太平洋戦争後、この地一帯のビルが連合軍に接収されたのに似ている。その転変の激しさは、先出の『慶応図』と比較するとよくわかる。

接収は当然ながら徳川氏股肱の臣から対象となった。譜代筆頭の雅楽頭と左衛門尉の両酒井家の屋敷には、共に当地に初登場の長州藩毛利家が雅楽頭邸の南半分を、薩摩藩島津家が左衛門尉邸に入った。その南隣、有力譜代の小笠原左京大夫(九州小倉藩主)邸には、明暦の大火後転出していた藤堂家が、東征軍先鋒をつとめたことが評価され戻ってきた。

藤堂家は藩祖高虎が、豊臣から徳川へあざやかに転身したように、維新の非常時にもうまく時流をとらえて「家」を安泰に置く、外様独特の現実的感覚を発揮している。

和田倉、馬場先門内、西丸下の一帯は永く閣僚の役宅街であっただけに、一家残らず追放され、明治政府の中枢機関が入った。とくに和田倉門内にあって江戸城守備の要であった会津藩邸は、早い時期に兵部省に変わった。そのほか著名なものとしては、評定所・伝奏屋敷=会計官。御作事小屋=用度司・会計官。大名屋敷では一度だけ老中になった大手町の松前伊豆守邸・東に隣接する植村駿河守邸・勘定奉行所=兵部省。老中では水野忠精=御用屋敷、阿部正外=神祇官、本多忠民=弾正台に変わった。若年寄役宅は、平岡丹波守=待詔局、立花出雲守=御用屋敷、また大老の酒井雅楽頭邸の一角、長州邸の西隣は公議所となった。

維新を推進した公家も当地に居住した。前住者は、右大臣三条実美が入った鍛冶橋門内の松平三河守(津山藩主)以外は全部若年寄で、馬場先門内の田沼玄蕃頭=明治天皇の養育掛・中山忠能、大名小路の酒井飛騨守=徳大寺実則・西園寺公望の兄弟、土岐山城守=坊城俊章、さらに日比谷門前の遠山信濃守邸は、一時岩倉具視邸だったという記録もある。

一方、譜代大名も九家に激減したが存続している。いずれも新政府のお覚えめでたい家で、まず大手町の越前松平家は早くから前主慶永が尊王の立場をとり、明治政府にあっても民部、大蔵卿の大任に補されている。近江膳所(大津市)の本多康穣は京都御所の警備を全力でつくし、率先、版籍を奉還した。三河吉田(豊橋)の松平信古は朝廷奉伺をして時勢を静観していた。

信濃松本の松平(戸田)光則は、朝廷へ一万五千両を献上し、会津討伐軍に参加。 上総鶴牧(千葉県市原市)の水野忠順は、正親町三条家と親交をたもって最初から恭順の態度をとった。美濃岩村の松平乗命は最初から官軍に属し、兵一小隊を東山道鎮撫隊に派兵している。上野高崎の松平(大河内)輝声は東山道軍に恭順をしめし、越後長岡藩討伐に参加している。摂津高槻の永井直諒は終始日和見的態度をつらぬいている。肥前島原の松平忠和は、父徳川斉昭、兄の十五代将軍慶喜、おなじく岡山の池田茂政との関係から「尊王敬幕」の立場を通した。
外様大名にも変化があった。不動であった岡山・鳥取の両池田家、熊本の細川家、天童の織田家、阿波徳島の蜂須賀家のほかに、先にふれた長州毛利、薩摩島津、伊勢津藤堂、さらに、高知新田の山内豊誠、備中生坂(倉敷市)池田政礼が加わった。また岡山池田藩邸の規模が、西隣の老中松平周防守邸を吸収して倍増し、山内家も高知新田藩と隣接したためか、享保年間いらい、百数十年間隣り合ってきた蜂須賀家が、大手前の旧一橋家あとへ移っている。

大名小路の絵図も、文久図ごろから徐々に尊王佐幕の色分けを見せはじめ、ここに至って佐幕大名は姿を消した。しかしそれもわずか数年のことであった。明治五年(一八七二)二月二十九日、和田倉門内の兵部省分舎(旧会津藩邸)から出火、大名小路の大半を焼亡してしまったのであった。

この時期の出来事としては、版籍奉還がすすみ、東京遷都がおこなわれ、旧藩主はほとんど新たに設けられた「知藩事」となった。のちの知事と同意義だが、明治四年に改正になるまで、藩名をつけて呼ぶときは何々藩知事とし、今日でも用法を誤られやすい。これも別の角度から見れば、革命政府に共通の混乱である。慶応三年十二月九日に総裁・議定・参与の三職のもとに、神祇・内国・外国・海陸・会計・刑法・制度の七事務科を設置して以来、官制はめまぐるしく整備をかさね、内閣制度が創設されたのは明治十八年(一八八五) 十二月のことである。 明治十年代図に至る間に、中央政府としての機構は強化され、西南雄藩の下級武士出身者が参議、卿・大輔などの顕職を占め、藩閥専制の傾向をつよくした。しかし軽格まで入れれば三百万人と推定された士族階級の崩壊は、国論を二分し、最後の内戦である西南の役を経なければならなかった。十一年五月十四日“明治政府の頭脳”大久保利通が凶刃に倒れ、先に西郷隆盛、木戸孝允を失っている政府は第二世代を迎え、岩倉具視を頂点として伊藤博文、山県有朋が政治を担当し、民権をめぐって新たに官民抗争の年代に入ってゆく。

そして明治十一年十一月二日、大名小路は新たに大手町・竹平町・元衛町・道三町・銭瓶町・永楽町・八重洲町・有楽町の町名がつけられ、「軍・官の町」としての色彩をつよめていき、明治二十三年(一八九○) 三月、いまより百年前に、当地の軍保有地と、神田三崎町の練兵場合わせて十万七千二十六坪六合が、三菱社に百二十八万円で払下げられたのであった。

江戸から東亰へ

慶応4年(1868年=明治元年)4月11日、いよいよ江戸城明け渡しの日である。この日、前将軍慶喜は上野をあとに、謹慎先の水戸へ去った。
幕府の崩壊で、百数十万の人口が60万たらずに減り、藩の武士がいなくなり、それへの依存度が高かった江戸経済は大打撃を受けることになった。
のちに郵便制度を創設した前島密は、実権を握りはじめた薩摩藩士の大久保利通に江戸遷都を建言、東征大総督府の軍監だった佐賀藩士江藤新平が建議した。それは東国経営のため江戸を東の京、すなわち「東京」とし、天皇は東西両京を巡行せらるべしという内容であった。
この頃すでに江戸城は無血開城していた。そうした江戸を実感したあと、朝廷は「東西同視」の方針を明らかにし、また幕府を失った江戸市民の動揺をしずめ困窮を救済するため、一部の公家の反対を押し切って東京定立の議を決し、7月17日、詔として江戸を東京と改めたが、京都の情勢を考慮して「東亰」と書き「とうけい」と読ませた。

9月20日、天皇は二千人の諸藩兵に守られて京都を出発、天子様(天皇)を知らない江戸市民へ、天皇は不動であることを示す目的で、東海道を東へ向かわれた。岩倉具視の発案で、天皇は江戸市民が見たことのない鳳輦(ほうれん)に乗られ、公家は狩衣・直垂に威儀を正し、道中、稲刈りや漁業などを視察され、10月13日に呉服橋から和田倉門を通って城内に入った。
この日江戸城は東京城と改称され、翌2年2月28日に皇城と改称して太政官が設けられ、名実ともに東京が首都となった。

明治元年(1868年)天皇東幸「東京府京橋ヨリ呉服橋ノ遠景」

明治元年(1868年)天皇東幸
「東京府京橋ヨリ呉服橋ノ遠景」

明治維新後の皇居前広場

明治維新後の皇居前広場

明治政府は江戸市中の68%を占める武家地のうち、慶喜の静岡退隠に従っていった旗本の土地家屋は持分全部を、残留組は一軒のみ残し、大名屋敷も一カ所を除き、徳川氏に近い親藩、譜代の順で収公した。
明治維新の変革は、諸大名の境遇を一変した。特に明治4年(1871年)発令の廃藩置県によって大名としての身分も失い、丸の内一帯にあった広大な江戸屋敷はまったく無用の長物と化し、たとえ処分しようにも引受人はなく、無人のまま軒は落ち、塀は崩れて荒れはてた。そこへ着目した政府は、大名屋敷を兵舎に転用することにした。こうして二重橋前の皇居広場から、丸の内・日比谷一帯にかけては軍隊の町に変わっていく。

明治5年(1872年)2月26日、和田倉門内の兵部省添屋(分舎)から出火した火災で、ついに大名小路一帯の屋敷街はほとんど全滅した。
天下の総城下の象徴が、これも江戸の象徴である大火で消滅したのは、なんとも皮肉なめぐり合わせであった。

壮大な市区計画下の丸の内

明治政府当面の課題は国軍の創設であった。帝国軍隊は6鎮台、営所14を置き、将兵数は平時4万、戦時7万と定め、毎年1万人を徴兵することに決定した。この影響で、丸の内一帯はよりいっそう「軍の町」としての色彩が強まった。
西南の役と“維新の三傑の死”で迎えた明治10年代の丸の内界隈は、武力抗争を断念した不平士族が言論による反政府運動を展開する時流を反映し、警察・司法、そしてさらに陸軍の中枢としての色彩を強める一方、明治政府最大の課題である不平等条約改正の舞台となってゆく。
丸の内一帯が官庁と軍の町に変貌するにともない、道路もまた馬車の交通に合わせて改革された。都市化が進むにつれ、幅員が狭くて危険であるとして、明治17年の市区改正意見書では初めて歩道と馬車道の分離が提起された。

明治政府の中枢となってのち、大名小路の名称は途絶え、明治11年(1878年)、旧町奉行支配地よりやや広域だった「朱引内」の地域を15区に分けることとなった。当地区の町名を北から整理すると、竹平町・元衛町・大手町(一~二丁目)・道三町・銭瓶町・永楽町(一~二丁目)・八重洲町(一~二丁目)・有楽町(一~三丁目)の八町、皇居外苑は元千代田町・宝田町・祝田町の三町ということになる。

明治22年(1889年)、当時の建国記念日である紀元節の日に、宮城正殿で憲法発布の式典がおこなわれた。世情がようやく平穏を取り戻し、宮城の警備も常備軍を置くほど厳重でなくてもよくなった。兵舎となった大名屋敷は危険でもあった。損傷がひどく、暴風雨による倒壊で負傷者も出ている。
明治21年に定められた、東京府の「市区改正条例」によって、丸の内は将来市街地とする方針が明らかにされていた。陸軍省はそのことも踏まえて、本格的な兵営への移転を具体化し、練兵場用の広い敷地が確保できる赤坂・麻布方面に、堅固な煉瓦造りの兵営を新設することにした(旧防衛庁・現東京ミッドタウン)。同地域は、丸の内の上屋敷より広大な、大名諸侯の中屋敷が政府に収公されたままになっていたのである。

移転は明治20年頃から徐々におこなわれたが、全移転計画の実施には150万円が必要であった。このときの国家予算規模は約7900万円で、うち軍事費は約1400万円である。10%を超える巨額に、移転費用の調達が行き詰った。そこで考案されたのが、軍所有地の売却処分による資金確保であった。
軍用地の売却方針は決まったものの、場所が宮城の正面一帯とあって、やたらな施設を認めるわけにはいかない。なんとか窮状打開をと考え抜いた政府は、東京府に入札による競売を委託した。明治22年10月のことである。この年は、明治になって初めての金融逼迫による経済恐慌に見舞われていた。

明治32年(1899年)の「三菱カ原」と呼ばれた丸の内(郡司福秀画)

明治32年(1899年)の「三菱カ原」と呼ばれた丸の内
(郡司福秀 画)

政府が示した丸の内一帯の払下げ価格は、坪当り11円11銭という破天荒といってよい超高値であった。払下げ計画に行き詰った政府が、最後に打診したのが三菱社社長の岩崎彌之助であった。これより先、新政府の大蔵大丞をつとめ財界で重きをなしている渋沢栄一が、三菱社が当地の一括払下げを受けたあと、半分を渋沢ほか数名の財界人に譲渡するという共同購入を提案してきた。しかし彌之助は、引受ける以上は三菱一社で購入し、自由な計画を立てようと考えていたので、これを断った。
彌之助の「お国への奉公の意味をもってお引受けしましょう」という一言で、翌23年3月、実現した。
三菱社はこれを、翌年3月を期限に8回に分けて納入、坪単価は11円96銭弱についた。なかば国家への献金の趣意をもって、経済を度外視しておこなわれたのであった。
ある人が彌之助に、「こんな広い場所を買って、いったいどうなさるのか」とたずねたところ、「ナニ、竹を植えて、虎でも飼うさ」と笑ったという。

ロンドンに出張中だった、三菱の大番頭といわれた荘田平五郎は、丸の内が払い下げられるらしいという情報を得て、彌之助あてに「すみやかに買取らるべし」と進言の電報を打った。荘田は、同行の末延道成とともにロンドンの近代的オフィス街をまのあたりにして、いつか我が国にもこういう町を実現させてみたいと思っていたという。彌之助はただちに両人の意見を採用し、早くも美術館や劇場などの文化施設まで備えたビジネス・センター建設の方針を固めたのである。
(「アート作品探訪」の記事参照)

三菱は払下げ入手後すぐ、旧大名屋敷の整理に着手した。荘田が、工事担当の少壮建築家、曽彌達蔵にあてた8月4日付の書状から、東京府の市区改正案を基礎にして、新しい町づくりを一直線に進めようとする三菱の熱気が伝わってくる。
明治23年8月が丸の内オフィス街実現のスタート月とすれば、奇しくも天正18年、徳川家康が江戸入城と定めたのも8月であり、ちょうど300年目にあたることとなる。

明治初年(1870年頃)の江戸城周辺

明治初年(1870年頃)の江戸城周辺

明治44年(1911年)の丸の内周辺 「東京風景」東京都公文書館蔵

明治44年(1911年)の丸の内周辺
「東京風景」東京都公文書館 蔵